【鎌倉殿の13人】建築考証担当・三浦正幸先生に学ぶ~マチコの知らない鎌倉幕府~




圧倒的に狭いエリアに作られた鎌倉幕府。 本当は大倉幕府?!


国土地理院の陰影起伏数を見て頂くとわかるように、三角形の かなり狭い面積のところに鎌倉幕府の主要な施設が集まっています。

鶴岡八幡宮、まっすぐ伸びる若宮大路、義時邸、大倉御所、北条泰時邸、 宇都宮幕府、若宮大路幕府、北条時房邸 などがところ狭しとひしめいています。※上の図参照



ひいて見ると、三方向は山で囲まれており、南側は海。まさに天然の要衝。 七里ヶ浜は28キロつづいていて、その先の稲村ケ崎は 断崖絶壁で通ることは不可能でした。上の地図の下の方に”稲村ケ”とありますね!

このような理由で、鎌倉は南の防衛を軽視していたそうです。

確か、九郎義経も義時に鎌倉攻めを披露していた時、南から攻めるという内容を話していました。



若宮大通が斜めになっているのがよく分かります

新田義貞はどうやって鎌倉を攻略したのか


ところが潮の満ち引きで 稲村ヶ崎に道が出現することがあることを地元の漁師は知っていました。それを聞きつけた 新田義貞は潮がひく頃を見計らって、鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府を打ち滅ぼしました。1333年のこと。


脱線しますが、新田義貞はあらかじめ潮がひく頃を事前に分かっていたため、”さあ、もうすぐだ”、という時に、劍を持ち出し、多くの家臣が見守る中、その劍を海に投げ入れました。 果せるかな潮が引いたので、見ていた者たちは神がかり的なものを感じ、士気はさらに上がったと伝えられているそうです。


ちょっとモーゼの十戒を思わせる伝説ですね。 ちょっと調べてみましたら、モーゼも海に向かって杖を投げ入れたそうです。やはり何か投げるものがないと説得力がわかないのでしょうか?。。。


脱線から戻ります。大河ドラマでは何年までやるのでしょうか?まだ三浦先生もご存じないそうです。 脚本が最後までできていないそうです。。 楽しみですね♪


鎌倉に観光に行った際はこんなに狭いエリアだったことに気づくことができませんでした。

これは京都に比べると圧倒的に狭く約1/10のサイズだそうです。 京都や奈良は 平地のため、すぐ敵に攻め込まれる危険性があった。 そこで秀吉は聚楽第を建築し土塁で囲みました。


鶴岡八幡宮の本殿から下は、大きな崖になっていますが、これは人工的に山を削って造られた大土木工事でした。 この大土木工事は、のちに山城づくりに活かされることになったそうです。

鶴岡八幡宮は最初別の場所にあり、頼朝が今の場所に改めて造ったとのこと。神社が都市計画の中心になった初めての例ということで、非常に珍しいそうです。


特筆すべきは若宮大路が南北になっていないという点です。通常、平安京などのような日本の都市計画では必ず道が南北に通っておりましたが、鎌倉の場合は山に囲まれているため、どうしても斜めに道を通さずにはいられなかったと言うことです。


この若宮大は幅33mもあり、当時日本最大の道路でした。


なぜ大倉幕府?!


鎌倉幕府という名前で通っておりますが、本当は大倉幕府というのが本来の呼び方だったそうです。 なぜなら御所があった場所が大倉と言う地名だからです。 (※1枚目の図にも大倉御所とマークしてあります。)室町幕府も室町という場所に幕府があったため、室町幕府と呼ばれました。 しかし今更大倉幕府と言われてもピンときませんね。


この大倉幕府のあと、宇都宮辻子幕府→若宮大路幕府と移転していったようです。1枚目の図に宇都宮幕府と印があります。そのすぐ上に〇印がありますが、そこが若宮幕府のあったとされる場所です。


非常に重要な切り通し


上の図を見てください。 真ん中あたりに切通と書いてあります。 鎌倉は 攻めにくく、守りやすいという 圧倒的な利点がありましたが、逆に交通の面では不便でした。


そのため 山を切り開いて切通しという道を作りました。 ただし大軍がスムーズに入れないように設計されていました。

先生の板書を写した私の手書きのイラスト(下の図)を見ていただきたいのですが、敵が攻めてくる時には圧倒的に守りの方が有利。上から矢を射るのは下から矢を射るよりも性能が全く違い、十倍の兵力の差ができたということです。

つまり攻め込むには単純に十倍の兵力が必要ということになるので、新田義貞も海沿いから攻める方を選ぶしかなかったそうです。 結果的にはそれで成功しましたね。



以下に大倉御所見取り図があります。 NHKの美術スタッフさんは 見取り図を参考にセットを作るられるそうです。 余談ですが紫式部も小説を書いた際に 建物の見取り図を描き、それを元に小説を書いていたので、位置関係など全てつじつまがピッタリとあっていたそうです。 再来年も楽しみです♪




この御所は 横が200m、縦が250から270mの大きさです。 小学校の校庭が四つ分ほど入るバカでかいサイズだったことがわかります。 ここで特に注目するのは侍所です。 ヒゲづらでおちゃめな(結構好きです)和田義盛が侍別当となっているところですが、ここは 幅が6mで、長さが54mもあったそうです。 上の④です。


実際に 300人を座らせたという文書が残っているそうです。 三十三間堂が105mで当時日本で最も長かったそうです。 それに比べると小さいかもしれませんが、それでも 御所の中で最も大きい建物と言えます。


補足説明:もしかしたら54mではなくて、64mだったかもしれない という説もあるそうです。京都と鎌倉で一間の長さが違っていたかもしれないとのことでした。


③の持仏堂というのは場所が間違っていて、本当は左の上の方の隅っこにあるはずの建物だそうです。 しかも八角形というのは間違いで、本来なら四角でないといけないそうです。

八角形というのは、亡くなった人のための建物になるからだそうです。 ご存知 聖徳太子の夢殿も八角形でしたね。


秀喜の誤算

秀吉が 家康に命じて鶴岡八幡宮の修復をさせました。しかしそうなってくると家康が源氏の総本家と名乗れるとんでもなく絶好な理由を期せずして与えてしまったことになります。


本当は秀吉がちょっといやがらせ的な意味で修復を命じたそうなのですが、それが逆に家康にとっては超ラッキーで、鶴岡八幡宮の正式な担当者であるという具合に箔がついてしまったとのことです。


毎週そわそわ&どきどき(ありふれた表現ですみません)の大河ドラマですが、このまま終わらないで欲しいと思ってしまうマチコでした。そんなわけないわい( ;∀;)

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