日本の名城講座 三浦正幸先生から学ぶマチコの知らない福山城(広島)


壮観な眺めです

今回のお城は広島県福山城です。見るからに立派なお城ですが、実は表だけが立派だった!!

このお城の魅力を広島大学名誉教授の三浦先生の講座からお伝えしたいと思います。


以下のメニューです

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① 何故なぜ西国外様大名の真っただ中に譜代大名の水野勝成が城を築いたのか?


② 一二三段の平山城って何?


③ 表の姿と裏の姿は別物?


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①何故水野勝成が?


そもそもは関ヶ原の戦いまで遡ります。 なぜ関ヶ原の戦いが東軍と西軍 と 呼ばれていたかについて。

東といっても 今で言う関東とは違い、東海三県長野県・山梨県・静岡県 この辺りが東軍の武将達がいたところです。


逆に 現在の 九州四国 中国地方の大名らが西軍と呼ばれていました。 関ヶ原の戦いの後 東軍の大名らは西の方に引っ越してきました。 この時 水野勝成はわずか 十万石。大大名の朝野家と池田家に 両方から挟まれる形となりました。


「オオカミの群れの中に羊が一匹」という構図になるのですが、実はここが実際と違うところ。

まずはこの水野勝成という人物はどんな人なのかを知ることから始まります。


三浦先生によりますと、超ド級の猛者であり羊とは似ても似つかない人物だったそうです。

父親の家臣を切り殺してしまい、家に居られなくなったことで、様々な西国大名のところを渡り歩いて放浪します。しかし実はこの放浪が勝成の築城にプラスに働きました。


当時江戸幕府には築城のプロはおらず、城造りの専門家は大概西にいました。放浪する中で自然と築城の知識を得ていたのです。いやー。何が幸いするか分かりませんね。



そして皆さまご存じ武家諸法度


これが新しく城を建ててはいけない。城の改修も行ってはいけないという厳しい規則でした。

しかし福山城は建てることができました。



その理由は、幕府が造らせた城だからです。上記の様に西にはまだ豊臣恩顧の大名が沢山いたため、それらの勢力に対抗するため、幕府の息のかかったお城を西国に立てる必要があったそうなんです。

言ってみれば、西国の鎮衛のための城。睨みをきかせる為の城だった。


よって立派な城でなければならなかった。



②一二三段の城というのはどんな城?


通常平城の場合はフラットな地面に、石垣や櫓が立てられるので、一番手前の櫓しか見ることができません。ところが一二三段で建てた場合、雛飾りのように段々になっているため、奥のほうの櫓もすべて目に入り、非常に効果的に見せることができたのです。


視覚的に非常に優れている。比較していますと、マチコの地元の大垣城は平城ですが、一二三段になっていないため、石垣はたくさんありましたが、手前の土手しか見えなかったのです。

同じ費用をかけても。立派に見えないのは非常に残念ですね。費用対効果がいいか悪いかと考えれば、圧倒的に一二三段の平城のほうが費用対効果が高いと言えます!!


また他の例ですと広島城。広島城の方がこの福山城よりも櫓が多いそうですが、それが見えない。非常に残念とおっしゃっていました。

全国的に見てもこの一二三段の平城はあまりなく、岡山県の津山城と香川県の丸亀城が一二三段になっているそうです。お近くの方は是非行ってみてくださいませ。


一二三の造り方は非常にダイナミックです。おーきな山の上部をざっくりと削って、平らにし、その上にお城を建てる。そしてまた外回りを削って2段目も造るそうです。この福山城は山を削った土の量が日本最大だったそうです。

今のようにトラックが無い時代にそんな大規模な土木工事が行われたのがびっくりですね。

簡単に描くとこんな感じです。三浦先生の板書を真似てみました。


下手なイラストでスミマセン


特に今回印象に残った三浦先生の解説は伏見城の移築です。伏見櫓は伏見城から持ってきたものです。豊臣秀吉というとすぐに、大阪城と思ってしまいがちですが、実は秀吉が大阪城にいたのはたったの数年間でした。


一方伏見城の方は25年間、秀吉がそこで政治を行ったため、まさに中心的なお城でした。その伏見櫓を福山城に持ってきたことにより、いつも秀吉のもと馳せ参じた際に目にしていたものと同じ伏見櫓を福山城で見るというのは西国の大名に対する心理的な効果は絶大だったわけです。


こんなふうに三浦先生は分析されていました。これはとても面白いなあと思いました。

無意識に畏怖の念が湧いてきてしまいそうですよね。


③お城の裏側について


堀も造られなかった裏側の様子

わずか2年で、このように巨大なお城をつくったわけですが、それにはもう一つ特筆すべきわけがあります。

それは、このお城は正面から見るとやたらめったら、大きくて立派なお城なのですが、実は裏側は言わば手抜き工事で、堀もありません。まるで丸腰なのです。


ただし、裏側は鉄板が張り巡らされていて、大砲が撃ち込まれても大丈夫なような工夫がされていました。


これほど、大量に鉄板が貼ってある天守はなく。 1622年当時で全国の鉄の生産量の10%が使用されていたとのことです。Youtubeで一般に復元VRが公開されていますので是非ご覧いただきたいです!!


ここでちょっと横道に外れますが、三浦先生のお話によると、大垣城には鉄板の城門があったそうです。それが今は各務原の文化財になっているそうです。なぜ各務原に持っていかれたのか。ちょっと気になり、調べてみました。大垣生れで、子供の頃よく大垣城で遊んでいたマチコとしては興味津々。。。


各務原のページで調べると、大垣城の表口にあったこの鉄の城門は明治9年に払い下げられた。安積家の門として使われた後に各務原に寄付されて、今は各務原市の指定重要文化財となっているとのこと。


写真でみても大変趣のある高麗門ですので、是非実物を見に各務原までドライブがてら、いつか行きたいと思います。


こうしてみてくると。勉強したお城には実際に行ってみたくなりますね。いつか福山城にも行きたいと思うマチコです。


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