日本の城講座『月山富山城』三浦正幸先生に学ぶ~マチコの知らないメガ山城~
「とみだ」と読みたくなる漢字ですが、“とだ城”です。巨大山城で、1㎢もの面積を誇る。
ただ大きいとだけ言われれば「ふううーん」と思う程度ですが、私が三浦先生の今回の講座を受けてこのお城について感じたことは“もったいない”というか“運が無かった”というかなんともモヤモヤとした気持ちでした。
脱線しますが、安来(やすぎ)市はどじょうすくいで有名な場所ですね。私は本物の安来節を聞いたこともないし、本物のどじょうすくいも見たことがないので、いつか島根県に行ったら見たいです。
お城に話はもどりまして、今日は何故モヤモヤしたのかを中心にこのブログを書こうと思います。
いつの世にもなんだかツイてる人とツイていない人がいるものだなと思いました。
堀尾吉晴が主人公。
慶長5年に吉晴は富田城に入城した。そこから城造りを始めたのですが、(もちろん堀尾吉晴以前にも尼子氏や吉川氏なども入城していて城造りをしていましたが、今回はその部分を省略します。)あまりの土木工事の大変さに途中でなんとギブアップしてやめてしまった。
えーーー?サンクコストが半端ないんでないの?と心配になるマチコ。
6年もの時間と労力をかけて行った城造りをバッサリ捨てて、なんと松江城を造ってしまった。結果良かったのでは?と思いますか?
その頃吉晴はすでに隠居していて、息子の堀尾忠が当主でした。当時吉晴は別の場所に城を造りたかったが、息子の忠は松江に建てたいと言って、意見が分かれました。そうこうしている間になんと忠が先に亡くなってしまいました。仕方なく吉晴は孫の忠晴の後見人という立場で城造りに関わったとのことです。
なくなった息子への思いやりなのか結局松江市にお城は建ちました。ここはさりげなくジーンときました。
しかし、そもそも関西のお城は慶長5年に皆こぞって築城をスタートさせていたので、ただでさえ富田城で6年間ロスタイムがあるのに、それから遅れて松江城を造ったので、世の中から相当な出遅れ感がありました。
そのためなのかどうなのか、お城の東側と南側の守備は厳重ですが、北と西はお堀のみ。普通は土塁を造るはずなのに、何も造っていません。簡単に言うと半分は攻められ放題という有様なんです。そんなお城珍しいですよね?
他にも三浦先生にとってツッコみどころが満載。
① 天守は巨大(だって大きい天守が吉晴の特徴)
② 天守に比して櫓は小さい。
③ 腰曲輪は時代遅れ。
④ デカすぎる大手門(デカいもの好き)
⑤ 日本最大の桝形(「これもう馬出しでしょ!」by三浦先生←ここは笑ってしまいました。)
⑥ 鈍角多すぎ(「直角に興味が無いのか?!」by三浦先生←再び爆笑もちろん心の中です。講義中にマチコ大声出しませんよ)
もう少し早く富田城に見切りをつけて、すぐに松江城に取り掛かっていたら、中途半端な造りにならず済んだのではないかと同情してしまいました。
現代社会においても、お金をかけてしまうと、ここまで頑張ったのだから、もう少しやってみようかと思って更なる深みにハマってしまいがち。だけどサンクコストを早めに切り捨てることで、リカバリーも早いし、次に進めるのだと思いました。
変わり身が早いというと聞こえは悪いですが、しぶしぶやっているくらいなら、さっさと捨ててしまって、新しいことに情熱を燃やした方がいいのかもしれません。
判断を誤れば大打撃。判断力って本当に大事だ!!と思った今回の日本の城講座でした。
また次回をお楽しみに♪
※三浦先生から頂いた資料は先生に許可を頂いてこちらにアップしております。先生のレジュメはいつも資料が多くて、先生の気持ちがありがたい。しかも全て手書き。そして達筆だ!!すごいです。
来月もまたお楽しみに♪
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