大河ドラマ【鎌倉殿の13人】建築考証担当・三浦正幸先生から学ぶ~マチコの知らない大鎧パートⅡ
唐突ですが、三浦先生はとても絵が上手です。ホワイトボードに様々な絵を描いて説明して下さるのですが、それがとても分かりやすい!
時には建物であったり、時には城の地形であったり、今回は刀の絵を描いてくださいました。
太刀と刀の違いもさっぱり分からないマチコですが、先生の解説で納得しました。写真がなくてスミマセン。
今日のブログメニュー
① 刀について
② 戦い方の変化
③ 鎧のパーツ
④ ゴシッピーな庶民って何?
太刀と刀の違いって何?
太刀は長さが約3尺(90cm)で刃が下向きです。 一方刀は二尺二寸(約66cm)刃が上向き。 ちなみに66cmより短いと は脇差し と名前が変わります。 また興味深いのは それぞれに対して使われる動詞が異なるということ。太刀の場合ははくといい 刀の場合は帯びるというそうですよ。
戦国時代になると腰のあたりに、帯のようなものを縛っていたので、そこに刀を差すことができた。よって動詞が帯びるとなりました。鎌倉時代は帯びがないのでぶら下げる形だったそうです。
実際 帯びてしまっていると太刀が長すぎて、馬に乗っている状態で鞘から抜こうとしてもどうにも手が届かず、抜けない!という笑うに笑えない事態になります。
しかもこの時手放しですから 笑
刃は必ず上向きと決まっていた理由は、刃が下向きだと乗っている馬の横腹を刀でたたいてしまうのでそうです。 例えば急に方向変換したときに 馬の横っ腹に刀がバシッと 当たってしまう。 これは大変危険。なかなか難しそうです。
しかし鎧兜だけでもう20キロあり そこに達と弓を加えると合計30キロ。 馬にとっては 人間の体重を60キロとすると約百キロ弱 の重みに耐えていたということになります。 ちょっと馬かわいそう
寄り道の雑学
ここでちょっとした雑学ですが 昔は右手/左手という言い方はありませんでした。 そこで 左手のことを弓手(ゆんで) 右手のことを馬手(めて) といったそうです。 左手で弓を持ち にい右手は手綱を持つからです。
そして 昔は左利きというのは存在が 許されていなかった。 左利きの人がいたかもしれないけれども、生まれた時から 決まった手で 指や手綱を持つよう教育されたからだそうです。 だから左利きの人は「なんだかやりにくいなあ」と心のなかでは思っていたかもしれませんと三浦先生。
ちょっと待って!三浦先生は建築の専門家です。 なぜ 鎧のことまでそんなにお詳しいのか と 不思議に思っていると 先生は広島大学の文学部で美術工芸学科もご担当されていて 、実はむちゃくちゃ詳しいんです。
誰よりも詳しいと言っても過言ではないのです。さすがさすがですね。 いつも尊敬のまなざしを向けているマチコ。
戦い方の変化で鎧も変わった
鎌倉時代の戦い方は敵と味方の間に距離があり、その分時間もある。太刀の場合は鞘から抜いてそのまま切るとみねうちになってしまうので刃の方向を変えるために時間がかかってしまう。敵が遠かったのでそれでも 間に合った。
左腰に太刀をぶら下げ弓矢の束の箙は 必ず右側につけました。
この弓は2秒に一矢撃てますが、射程距離はたったの10m。
私のイメージはもっと遠くまで飛ぶと思っていました。そういえば義経が初登場した回では「どちらの矢がより遠くまで飛ぶか競おう!」って言ってましたね。100mくらい飛んだと勝手に思っていました。
ちなみに流鏑馬は3mだったらありだけど、10mで流鏑馬はとても無理 との話でした。 なぜなら両手手放しで 走る馬から 的を当てるなんて 遠距離だったらとても不可能と。昔は弓で引くのが間に合わなかったら 的をそのまま弓でどづくという 嘘のようなやり方だったそうです。なんと!ワイルドだ!
先日ある人に「趣味は流鏑馬です」という方(女性ですよ)がいらっしゃって「えええ?!」と驚いたのですが、手放しで馬に乗れるってことですよね。驚きです"(-""-)"
室町から安土桃山時代の戦国時代の鎧と 平安末期から鎌倉 時代の鎧 は全く違う
どう違うといいますと 戦国時代の鎧は鉄板で出来ていて 黒漆が光っている。 一方 鎌倉時代の方は 色も派手で あでやか 。紐が見えていて、その紐は絹糸に色がつけてあったそうです。
大鎧を着るのは 頼朝や 伊東祐親や大庭 のような 大将級で、義時 などは 腹巻と呼ばれる もう少し簡略化した鎧を着ていたはずです。 (※上の図参照)
大河ドラマでは気づきませんでしたが 次回見る時には鎧の違いについても注目したいと思います。
鎌倉時代の戦いは馬の上でしたので、鎧は馬の上にまたがった時に一番防御効果が高くなるように設計されていて、腰や太ももすべてが鎧でカバーされており、鎧から出ているところは脛と手のみ。ここも脛宛てと籠手でカバーされていました。
ただ台形の草摺が4枚付いているので馬から降りるとトタンにロボットみたいにカッコ悪くなってしまうという難点がありました。
鎧のパーツ色々
実はエプロンのように肩紐だけで留まっているだけで ぶら下がっている状態になります。こはぜと言って 今で言うボタンのようなもので紐を留めて つなぎあわせています。
こはぜというのは 今あまり使わなくなった言葉ですが 足袋を履いた時にボタンのように使っていたところのパーツを指します。 1000年も昔からあった細工になりますね。面白―い。
左の写真は本物の古い甲冑のこはぜです。
※左の写真はマチコの曽祖父が所有していた鎧の胴体部分です。
これは上の図の札を使ってありません。横長の鉄板を上下にだけつなげてあります。このころには鉄を曲げる技術があったのでしょうか?
三浦先生の資料によると。。
身体に合う鎧を作るために札(さね)と呼ばれる厚さ一ミリ未満の鉄板をつなぎ合わせて 作りました。一番上の 図を参照にしていただきたいのですが 、必ず鉄の札が二重になるように 設計されており、縦と横に 糸を巡らせて バラバラの札を一つにまとめています。
その縫い合わせに使われた素材は革で縫い(ぬい)と呼び、縦につなげたのが威(おどし)と言いました。この威しは 組紐でできていました。
この札は5センチから7センチでしたが、戦国時代になると小ぶりになり、小札と呼ばれるようになりました。
札で作る利点としては、太ってもそのまま着ることができるということもあり、1枚の板で作るとサイズ変更が不可能なので太ったら入らなくなりますが、蛇腹のように自在に調節できるので長く着れたのかもしれませんね。
札を使い縫と威で作った鎧の欠点は何でしょう?
鉄で頑丈に作られていますが、、どこか弱いところお気づきですか?
それは刀で横に切られたら紐だけの場所があるのでそこはアウトなんですね。バサッと落ちちゃいますね。あーコワイ。
他にも様々なパーツからできていますが全て説明するのが大変なので図を是非参考にして下さいね。
絶対取れない紐の結び方ですが、三浦先生が実際に紐を教室に持参してくださり、3つの輪っかをどう引っ張ってもどんどん締まって行って絶対に解けないことを見せてくださいました。
先生が私たちのために家でわざわざ結んできてくださったことに感動しました。
これは兜で、すごく怖い何かが付いています。
子供の頃はこの何かがコワくてコワくて仕方がありませんでした。
関ケ原の高木先生に壊れていた金色のパーツを補修してもらい、今は小川新聞店の応接室に飾ってあります。
小川新聞店には本当に昔戦で使われた曽祖父の甲冑と九州の丸武産業様(日本で甲冑製作で最上級の企業)で購入した甲冑がありますので、参考までにいくつか写真をアップしておきます。
こちらは丸武産業さん製作の鎧で肩の部分です。蛇腹の様になっていて、腕をあげたり下ろしたりしても邪魔にならないようになっています。
裏側はこんな感じです。
ゴシッピ―な庶民
威に使われている組みひもの色によって呼び方があり、白糸威といったり紺糸威と言ったり色々威というのまであったそうです。
戦に向かう武士を道端で庶民が見ていたそうで、律儀に日記に書いているそうです。「○○の鎧は赤威だった。すごくきれいでかっこよかった。」とか「○○の鎧は前回の戦と同じ色のものを付けていた。」などと京都の庶民はファッションチェックをしていたんだそうです。
ところが今の大河ドラマは関東が舞台でまだ粗野な庶民しかおらず、そのような日記的はものは一切残っていないんだそうです。今も昔も一般大衆はセレブのファッションなどが気になるんですね。この話は聞いていてとても面白かったです。
また三浦先生のとっておき裏話ですが、威のデザインも色々あり平安と鎌倉ではデザインが異なります。NHKの平安デザインの在庫が無いため、大河ドラマでは縄目取威(1枚目の図の右下)鎌倉以降のデザインを使っていることが多いそうです。
今度ドラマを見るときに威にも是非注目してみて下さい。私も楽しみ♪
Comments