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あなたの知らないマチコの世界


今回は番外編と申しましょうか。一体どんな人がブログを書いてるの?という疑問も湧いてきた頃(湧いていなかったらごめんなさい。)かもしれないと思い、マチコについて、何故日本の歴史の勉強をしているのかについて、ここにご紹介したいと思います。


かなりプライベートなことなども書いていますが、楽しんで読んでもらえたらと思っています。


1.マチコ幼少期~異文化コミュニケーション~


子供のころから外国に対するあこがれが強く、今思えば怖い話です。よく二人組で自転車を乗っている外国人がいましたよね(分かる人にはきっと分かる)、何故かその人たちの住処を知って、これは「外人と話さなければならない!」と勝手に思い、一人で3輪車に乗って、そのアパートを訪ねました。どうでしょうか。小学校に上がるか上がらないかの幼い頃です。この時から一人で果敢に行動していることが驚きです。今もひとりで行動することが多いです。


物凄く鮮明に覚えているのですが、その外人さんはドアを開けて、パイプ椅子を室内から持ってきてくれて、私をその椅子に座らせ、自分もドアのすぐそばに椅子を置きました。「今日はどんな話がしたいの?」というようなことを聞かれましたが、私は何を話すか全く決めていなかった。そうすると「趣味は何ですか」みたいなことを親切にも聞いてくれまして、しばらく外人さんといっぱしに異文化コミュニケーションを楽しんだのでした。好奇心は生まれつきだったようです。


2.大学生~OL~日本語教師


こんな好奇心だけは人一倍だけど計画性と言えば、いまいち。

しかし、すくすく育ち、愛知県立大学外国語学部英米学科に入学。海外への興味はつきませんでした。もちろん歴史は世界史選択。日本の歴史?それって面白いの?って思っていたんですね。

4年後広告代理店に就職するも、「なんか違う」と思って3年で退社。その後は専門学校で日本語教師になる勉強をし、資格試験に無事合格、外国人に日本語を教える仕事をスタートしました。ドイツ人の牧師さんの奥様とか、日本の中学校に英語を教えに来ているイギリス人の英語教師とか、本田技研のエンジニアやラグビー選手もいました。(ラグビーが大好きになった今から思うと、ニュージーランドからのラグビー選手だったので有名な人だったのかなと思い返したりします。私が担当教師ではなかったのですが、一度皆で一緒にお食事に行ったりしました。)いろいろな思い出があります。ここでも異文化コミュニケーションが楽しかったんですね。


3.マチコ米国へ


日本語教師を数年間務めた後、一念発起して米国に留学。1年間オハイオ州立大学でコンティニュイングエデュケーションというプログラムで好きな学科を選択して勉強するというという経験をしました。でもその頃すでに30歳だったので、周りの若い子たちと混ざって勉強するのは非常に大変でした。アメリカ人のルームメイトとエアコンの温度の上げ下げでもめたり。。驚いたのは心理学の授業を受けてた時、先生が飴ちゃんを持ってきて、普通に

「回して食べて!」

と言ったことです。日本の大学で先生が飴をくれるなんてあり得なかった!!目を白黒させてました。


また、ある時は学校の体育館で放課後にエアロビクラスレッスンを受けてみたら、アメリカ人の体力が凄すぎて、体力にかなり自信のあったマチコでしたが、途中から付いていけなかった経験も。


あの頃の爆発的なエネルギーは何だったのでしょうか。爆発力は若い時にしか出ませんね。

そのまま米国人と結婚してアメリカに住むという選択肢もありましたが、どういうわけか、やっぱり自分の中に“すっごい日本人さ(変な表現ですね)”が出てきて、ここに一生住み続けることは自分には合わないし、そして当時付き合っていた米国人とも将来のビジョンが描けず、一人傷心でトホホの帰国をしました。


米国滞在中に、時々米国人に日本について聞かれることがあり、それを説明しながら”日本ってやっぱりいいなぁ”と思い始めていたのも確かです。米国での写真がどこかに行ってしまってアップできないのが残念です。今後見つかったらさりげなく編集しておきますね。


4.日本で通訳の仕事~愛・地球博で


帰国したマチコはすぐに気持ちを切り替えました。通訳学校に通い始め、通訳の勉強を続けながら社会人相手の英会話講師やTOEIC講座などをしていました。通訳の学校では同時通訳の授業まで進みましたが、私のゆるい頭では、“耳で聞きながら同時に少し前に聞いたことを話す”という芸当がどうしてもできず、逐次通訳までで断念。

社内翻訳・通訳という仕事について、大手の電機メーカなどで再びOLとして働きました。その中でも最も印象深かったのが2005年の『愛・地球博』の博覧会協会での通訳のお仕事でした。


青空にたなびく国旗



私の所属は住宅チームでしたので、各国から博覧会のためにやってくる代表者のための住宅をオーガナイズするものでした。

中にはお金を払わない人、約束を全然守らない人、嘘を簡単につく人、いつの間にか帰国しちゃってる人などなど、とんでもない人たちと契約を交わさなくてはならず、身を粉のようにして働きました。



懐かしい!モリゾーとキッコロ♪


家賃を滞納する外国人を追いかけまわして「金を払え!」とグローバルループをカツカツッっと走り回っていましたので「なんだお前は俺の顔を見ると金のことしか言わねえな!」と睨まれました。私も必死なので「お前が払わんからやろー」とこっちもシャウトして、鬼のようにお金を取り立てていました。


夜のグローバルループ


今から思うと自分のお金じゃないのに、何故あそこまで必死に取り立て屋をやっていたのかと思ったのですが、後々になって上司が「この万博では絶対に家賃の踏み倒しがあると思っていたのに、実際はほんの一部だけで、ほとんどの家賃をちゃんと回収できた。ありがとうね」とお礼を言われました。それがとっても嬉しかったことを今も覚えています。いい仕事をしたなと思っています。彼は今までの上司の中で一番の上司でした。


万博開催中、さまざまな国々の人と交流をしたわけですが、一番キョーレツだったのがアフリカ館のボスでした。アフリカスタッフの中でひときわ強そうな男で、他のアフリカの代表者たちもそのボスの前に立つとワラワラワラと力が抜けたようになってしまうのです。どうしてなのかはいまだに不明ですがアフリカの中での力関係があったのでしょうか。。。

万博も終わりに近づいていた頃、そのおよそ2メートルの大きなボスに「俺と一緒にアフリカに来い!」と言われたときには、怖さもブッ飛んで即座に「NO!」と叫んでいました。第7夫人くらいにされてしまったかもしれないです。冗談だったとは思いますが。。。しかし、観光客として、アフリカはいつか行ってみたいところ。


万博会場空から

色々な民族衣装なども見ることができました☆


5.新聞販売店をスタート


外国人との様々な面白い交流もあるなか、やはり私は日本人が好きだなと再び思い始めていました。

日本人の相手を大切にする心遣いや、敬う心、ノリは悪いかもしれないけど、誠実なところ(外国人が全て嘘つきと言っているわけではありません)など、一周まわって日本が大好きになったんです。そして無事に?日本人と結婚。結婚を機に通訳の仕事は一切辞めて、両親が始めた新聞販売店を継ぐ決意をし、そして今に至ります。


8年ほど前から新聞販売店とともに歴史・戦国グッズの企画/製作/販売をスタートさせています。その関係で日本史やお城の勉強などもするようになりました。といっても本を読んだり、セミナーに参加したり、お城のツアーに参加したりといった感じです。

今はこのブログで書いている三浦先生の講座を受講していますが、本当に面白くて、是非この面白さを伝えられないかと思い、NHKカルチャーにお問い合わせをしてみました。三浦先生のご承諾を得て、このようにブログに書かせて頂いています。


この日本に生まれたことにも何か意味があると思うし、自分の国の歴史を知り、自分の国を好きになり、自分の周りの人を好きになり、そして自分も好きになるという具合にいい循環になってきているかなーと思います。


これからも楽しくて勉強になるブログを続けていきたいと思っていますので、お時間あるときに是非読んでくださいね。


~番外編の中の番外編~

マチコは20年ほど前に、スペインのフラメンコに出会いました。フラメンコは単なるダンスとは異なり、もともとは唄から始まっています。唄に華を添えるように舞踊が進化してきました。私は踊りの方を習い始め、独身時代からずっとフラメンコに夢中。ここ1年はコロナ禍でレッスンがZOOMになったりしていますが、ワクチンを2回打ったら、やっとスタジオレッスン再開できそうです。フラメンコは世界の踊りの中で最もカッコイイ踊りだと思っています☆またいつかフラメンコのことも書くかも。。。書かないかも。。。

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