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大河ドラマ『青天を衝け』建築考証・三浦正幸先生から学ぶ ~マチコの知らない渋沢栄一本当?!土下座シーン~

こんにちは。好奇心のかたまり小川新聞店のマチコです。今日は印象深かった渋沢栄一の土下座シーンについて記事にします。


ドラマの前半で岡部の陣屋に500両を納めに行く回がありました。土砂降りの中、栄一が土下座をしながら農民の気持ちを訴える感動的なシーンでしたが、顔を上げると、そこにはもう誰もいなかった。視聴者の私たちが栄一と一緒に悔しい思いをした忘れがたい場面でした。

(※500両っていったい今のお金の価値にするといくらになるのかな?と調べてみたら1両=13万円として、なんと6500万円もの大金になります。)


その後、栄一が一橋家に仕える身となった後に、道で岡部の当の代官とすれ違い、華麗にリベンジする回があったので、私たちは超スッ!としました。


(※NHK文化センター講師 三浦正幸先生、許諾)


①江戸時代の農家の特色

しかし、三浦先生はこうおっしゃいました。

”あのシーンは建築考証上は間違っておる!”と。


何故なら渋沢栄一はその頃農民ではありましたが、渋沢という名字もあり、刀も確か持っていました。つまり『名字帯刀』だったのです。名字帯刀ということはかなりの豪農、そんな名字帯刀を許されていた渋沢栄一が屋根の無い屋外で話をするなんてありえない!!というわけです。

絶対に陣屋の土間のようなところで話をしたはずとの先生の解説でした。ナットク!!


後のリベンジシーンをよりドラマティックに演出するために、そこは雨の降る屋外ということになってしまったんだそうです。なーるほど!!建築考証とドラマの演出というのは時々相入れないときがあるものなのですね。

②江戸時代の身分制度


ついでに言いますと、客人が家に来た際の座る位置も決まっていたそうです。

図③を見て頂きたいのですが、奥に座敷があり、手前が次の間といって、部屋が2つに分かれていました。

主人は奥に座り、お客は手前の部屋に座ります。先生曰く「主人とお客は絶対に同じ部屋に入らない。」とのことでした。

そういえば平岡円史郎が生きていた時のシーンで、平岡が床の間を背にして座り、栄一と喜作は手前の部屋に並んで座っていましたね。川村恵十郎は平岡と同じ部屋の右側に座っていました。


昔の日本の民家は大体畳の部屋がふすまで区切られていて、2間つづきだったと思いますが、それはこの流れに沿っています。私の子供の頃の実家にも床の間と違い棚があり、座敷が2間ありました。成長してからの実家にも和室がかろうじて1室だけあり、そこにもやっぱり床の間と違い棚がありました。この床の間と違いだなについては、後日別の回で取り上げたいと思っています。そして私が今住んでいる家には床の間ありません。皆様のお宅はいかがでしょうか?まだ床の間はありますか?




③主人と客の座る位置


しかし、ここで私には新たな疑問が湧いてきました。えっとお客様の方が身分が高かったら、誰がどっちの部屋に入ったらいいの?と。


こんな私の心の声を三浦先生が聞いたか聞こえなかったか、続けてこんな風におっしゃいました。


「身分が高い人が低い人の所に行くことは絶対にない!!」


なるほどーーーー!今と違って身分制度のあった時代では当たり前のことですね。言われてみれば当然。今までの大河ドラマを思い出しても、そうでした。織田信長が帝のところに行ったり、今は徳川慶喜が帝に会いに行っていますね。逆に帝が訪ねてきたら天と地がひっくり返る!『麒麟がくる』でも光秀が道三に会いに岐阜城に行ってました♪


余談ですが、ドラマで使われているセットは使いまわしをしているそうで、よく見ると『麒麟がくる』で使われていたものが、今の『青天を衝く』でも採用されているそうです。これが気づける方はすごいです!!


おそらく血洗島の渋沢家の家も図①のような感じだったと思うのですが、当時の民家は畳はなく、床の間もなく、広い土間があったそうです。畳代わりにどうしてたかと言うと、竹を並べただけの上にむしろを敷いて、そこで皆裸足で、生活していたそうです。夏は涼しそうですが、冬は寒くて耐えられないのではないかと思ってしまいました。私は時に寒がりなので、現代に生まれて良かったと改めて思います。


人間の寿命が延びた一番の理由はエアコンの普及だということを聞いたことがあるのですが、確かにこのような断熱材の無い時代に、季節によって変わる温度変化に身体をさらすというのは、それだけでかなりの負担がかかっていたと思います。


そもそも論ですが、一体いつの時代から建築が始まったのかというところですが、それは”古墳時代”とのことです。

そして平安時代と鎌倉時代は寝殿造りから書院造りへ変わったほどのわずかな変化。

一方日本史上最も劇的に建築が変化したのが【明治維新】の頃です。


政府のスローガン【文明開化】【殖産興業】【富国強兵】の下で、西洋と対等になりたかった日本。

その頃は「治外法権」「関税自主権なし」という屈辱的な状況。ですから、東京をパリやロンドンみたいに変えたかった。肩を並べたかった!この情熱で日本は建物をどんどん洋風に変えていったのです。


それがまた新たな誤解や間違いを生んでしまい、とんでもない建築物を作っちゃったり。ということがあったのですが、それはまた別の回に。。。


とうとう今日の『青天を衝く』では渋沢栄一らがフランスのベルサイユ宮殿(※すみません。予告編を見て、ベルサイユ宮殿だと思い込んでいましたが、正確にはチュイルリー宮殿の間違いでした。)に行くことになりますね。

日本は洋風の建物といえばすべて左右対称なんだ!と誤った認識したために、とにかく左右対称の建物ばかりを造ったのですが、三浦先生曰く「ベルサイユ宮殿も、よく見ると左右非対称だからね~」と。

ちなみにベルサイユ宮殿は大理石を薄く削って貼ってあるそうです。



④ペディメント(コリント式オーダー)このペディメント当時の日本人には入母屋に見えてしまったそう。

⑤渋沢栄一が初代頭取となった国立第一銀行

図③をよーく見ると上の方に入母屋破風らしきものが見えますよね。

大きな勘違いから生まれてしまった破風。ベルサイユ宮殿のペディメントがががが。。。。私にはその当時の大工さんが可愛く思えて仕方がないです。人は見たことがないものを見ると、自分の知っている似たもので代用しようとするのですね。


この国立銀行ツッコみどころ満載ですので、またいつか記事にいたしますね☆


さあ大河ドラマでどんな風にベルサイユ宮殿が描かれるか今からとっても楽しみです♪

(手書きの絵がなかなかに下手ですみません。少しづつ上達しますので、宜しくお願いします。)



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